エントリー

桜咲かせまショー お弁当 「春」

  • 2014/03/21 06:30

今週末にはもうエントリー締め切りに、でもまだまだ皆様からのエントリー届いていなくて不安な日々を送っておりますが、そろそろお弁当の手配にかかりましょう。 蒲田となれば「鳥久 唐揚げ弁当」が定番ですが、今回のショーのテーマは「桜咲かせまショー」、やはり「春」のお弁当がないものか? で、見つけたのが、その名も「春」のお弁当。

 

 

 

春告げ魚といわれる「鰆(サワラ)の塩焼き」、「蕗、ワラビを使った山菜ご飯」、「筍、菜の花」などの旬の食材と、可愛らしい「花形しんじょう煮」、桜香る「桜餡入り小粒大福」など、見た目にもこだわり、春をイメージしたお弁当。 お楽しみに。

  

桜咲かせまショー JEAN- MARCジャッジ

  • 2014/03/20 05:45

3年前、東日本大震災のあった年の6月のショーに、このマルクジャッジをご招待していました。 でも、海外では、福島原発の被害が大きく報道されていたために、来日は見送られ、やっと3年を経てこの「桜咲かせまショー」にお迎えできました。 フランスのトゥルーズではTICAとドメスティックなショーとのジョイントショーを開催、盛大に精力的に活動を行っているほか、ジャッジとしても世界的に活動されている、とても素晴らしいジャッジさんです。  ハンドリングがとても優しく美しく、猫たちをとてもチャーミングに見せて下さることでしょう。 エントリー締め切りが迫っておりますので、多くの方々のエントリーをお待ち申し上げております

 

ショーナンキャットクラブ36-37キャットショー

  • 2014/03/16 05:06

3月15日、東日本橋産業会館でショーナンキャットクラブさんの36-37回目のキャットショーが開催されました。  私は総武線の浅草橋から両国橋を左に折れて、隅田川沿いにゆっくり歩いて会場に向かいます。川に面した船宿の猫たちを見るのも楽しみの一つです。 今日はブラウンマッカレルタビーのトラちゃんが私を迎えてくれました。

牡蛎の佃煮が有名な小松屋さんの店先に置かれたプランターのパンジーが春を告げています。

 

 静かな昼下がり、船もお昼寝?

 

「我が宿の梅の立枝やみえつらむ  思ひのほかに君が来ませる」

「なほたのめ 梅の立枝はちぎりおかぬ 思ひのほかの人も訪ふなり」

 

 新しく伸びた枝につく花に誘われて、約束していないはずの人も訪れると言われる梅の立枝に着いた花、確かに私も足を止めてシャッターを切ってしまいました。 他にも2組ほどカップルが撮影していました。

ショー会場で。私の審査リングに置かれたアレンジメントのお花、一つ一つ手作り!                        お洒落できれい!!!

HHPのORCAさん。 左の頬っぺのロングヘアがご愛敬!  ここだけにどうして? でも、このような不思議を楽しめるのもHHPさんの楽しさですね!

  

Never forget 3.11 (5)

  • 2014/03/15 02:11

クレド会報47号から「東日本大震災」を連続で取り上げておりますが、最後に穂高忍様からのご寄稿をご紹介いたします。 穂高様は80歳、アビシニアンの女の子との二人暮らし。ショーとは関わりなく、ただただ猫が好きという愛猫家の一人として会報の原稿ご協力、ショーごとの御寄付など長年に渡り親しくお付き合いさせていただいてまいりました。クラブって、このような方々の温かいご支援なくしては成り立たないものなのですね。震災の後、皆様に呼びかけて下さって、たくさんの御寄付を集めていただき感謝のきもちでいっぱいです。  では、クレド会報震災特集にお寄せいただいた、最後のご寄稿です。  

 

             改めて知る命の尊さ
                                                 穂高 忍

 一年前の三月十一日、今も信じられない未曾有の大地震、一瞬にして家も車も船も人も生き物達も、町丸ごと飲み込んでいった津波の強烈な映像が、今テレビから流れています。インド洋の大津波は想像もつかない世界でしたが、ここからインド洋沿岸の被害をあらためて知ることを得ました。
 東日本の大津波は、広範囲の出来ごとでしたが、現実は人や暮らしぶりも一部分しか見えません、ただ瓦礫の山から推察するばかりです。そして、福島原発事故、発電所そのものの映像があっても目に見えない放射性物質は映像からは見えません。汚染の拡がりが不安と共により重く、より暗く心に押し込まれ沈んでいきます。
 災害時に犠牲になるのは、生き物達です。特に家族同様に暮らしていたペット達は、避難所では拒まれ行き先に窮するのです。
 木片によじ登り、漂いながら、また、廃屋で庭木に繋がれたまま、また、鎖を放たれたままのこの子達は虚ろな目で飼い主の助けを一途に待つばかりでしょう。
 追い回されて捕獲され、保護された子達が狭いところで力なく鳴く姿をテレビ映像で映されるとき、私は思わず、申し訳ないけれど辛く哀しくてスイッチに指を伸ばして消してしまいます。
 福島原発の事故が報じられ、今まで安全を信じて暮らしてきた人達は思いもかけない事態に遭遇したのです。
 警戒区域、避難区域の人達はやむなく住みなれた我が家を離れることになり、被曝の影響で限られた物だけを持ち、着のみ着のまま 逃れることになったのです。
 昨年の六月、柏市のN社宅で、被災者の方の受け入れをしました。その時、市から救済物品の提供を募っていましたので、私も同県人として微力ですが協力することにしました。提供品の掲示を見て、何軒かの方が来られました。最後八月に、二人の姉妹の方が尋ねて来られました。体格の良い妹さんは、幼い頃に聴力を失ったそうで、言葉は発せられますが会話にはなりにくい様でした。そんな事で外出することを拒むのですが、今日は連れてきましたとの事。早速リビングに招き入れ、私はお姉さんと郷里の話や必需品をお聞きしていました。その折、私の家の猫が和室から姿を現し、誰が来たのとばかり、ふくよかな身体の彼女に体をすり寄せていきました。今まで無言で不安顔だった虚ろな目が一瞬輝き「あゝ、あゝ、猫ちゃん」「可愛いい~ね」と連発して、幼児の様に生き生きと元気になったのです。そして「私、あちらの家から、この猫連れてきたの。」と胸ポケットから写真を出して、その猫の事を話し続けました。
 その穏やかな顔に、彼女と猫ちゃんの相互の強い繋がりを知り、何ものにも代えがたいものだったのだろうと思い、その空気に私もホッとしました。
 小型の車にあれこれと一杯詰んで、姉様は「このご恩は一生忘れません。有り難うございました。」とにこにこ顔で車を進めて帰っていかれました。聴力を失った彼女の大切な宝物の猫ちゃんを災害地から連れ出す事ができた話に、私の押しつけられる様な胸のつかえが少し下がった思いに、顔が自然とゆるみました。
 三月十一日のNHKスペシャル生中継“被災地の夜”が9時pmから放映されました。警戒区域は、西部映画のゴーストタウンの様な状態で、町も田畑もそのまま、唯々恐怖で息が止まりそうでした。そこへ農家から放された二、三頭の痩せ細り背骨が立ったような牛が餌を探す姿がありました。関係者の方が空しい声で「あれ達も近々薬殺されるのです。」と肩を落として語られたのを聞き、命ある多くの生き物達の声なき声を思い、耐え難い気持になりました。
 被害を受け、犠牲になった多くの生き物達に合掌し祈るだけです。
里親になられたという話も聞きましたが、彼女の猫ちゃんの様に救われた例は少ないのでしょう。
 改めて、命の尊さを強く感じながら、ここでペンを置きます。      

Never forget 3.11   (4)

  • 2014/03/14 06:21

          【東北大震災後、被災地で動物救護活動に参加し続けた
                        “いち獣医師”のレポート】
 
動物救護活動を経験して                 
                           宮城県  末永 朗 

 地球上で生きている者が、地球の自然な営みの中で生活させてもらっていることを、ともすれば忘れてしまう人間社会です。自然はそんな人間社会とは無関係に、人間の想像など遙かに越える現象を創り出してしまいます。2011年3月11日 午後2時46分 東北地方を襲った大地震と大津波は、地球の残酷なまでの自然な息づきを、まざまざと私たちに見せつけました。
 大津波で、沿岸部の静かで穏やかな風景は一変し、街は壊滅し、人も動物も尊い命の犠牲を払わされました。その光景は言葉にならぬものです。
 しかし、生き残った、生かされた生命を繋ぐことに人はまた、立ち上がります。被災後に出会った現地の人々の顔と言葉、動物たちの姿が、私たちを突き動かすことになります。被災地の動物救護活動に参加し続けた「いち獣医師」の体験と経験から少し綴らせていただきます。
 すべてのライフラインが完全遮断した1週間は、それはそれは静かで、夜の暗さは恐ろしい程でした。ラジオからの情報のみで、みんな生きるのに必死の状態で、大パニックこそ無かったものの、生活物資を求める小パニックは必然でした。沿岸部の被害の状況が把握できはじめた10日目ごろから、石巻地区の被災した獣医師仲間の応援と支援に通いはじめました。400以上散在する避難所に、着の身着のまま、動物同伴で避難した人々を支援する活動は、物資、食料、薬品の供給運搬と聞き取り作業から始まり、情報の一元化とシェルター設置が急務と判断されました。全国の動物愛護団体と称する人々がボランティア活動を展開していく中で、動物たちを保護し、一時預かりという形で東京や大阪に運んでいく現実は、マッチング(飼い主との再会)を妨げ、被災者の心をも踏みにじるものでした。また、道路遮断の影響や情報共有の無さから、物資のみならずボランティアの偏りも目立ち、避難所の被災者が一様に支援を受けられる態勢が整わず、更に、避難所の縮小傾向が日にちの経過とともに進み、はじめは学校の教室(一次避難所)が主な避難先だったのが、体育館や集会所など(二次避難所)に統合され、同時に動物の同伴同行も許されぬ状況となっていきました。理不尽と思われることだらけのこの状況が大災害被災をしたということなのだと思います。
 全国からのボランティアの参加に助けられながら、シェルターらしいものを形成できたのは4月の半ばでした。場所の設定やインフラなどの問題解決は、大混乱の中では、到底できるものではなく、行政も混乱の中にあって、事前に締結していた協定による協力体制も遅延し、先の見えない不安感とも戦わねばなりませんでしたが、「やらねば」という思いだけで、多くの支援が集結し、活動が展開していきました。まだまだ寒くて、時折、雪もちらつくこともある厳しい季節でした。
 5月に入って、「動物救護センター」という名に相応しい状態とまではいきませんが、仕事の分担や様々な作業がスムースになってきたでしょうか。 ゴールデンウイークには100名を越えるボランティアが参加してくれましたし、多くのメディアが頻繁に取材に訪れるようにもなり、支援の輪が大きく広がっていくのが実感できました。動物たちは一時預かりが7割、保護動物が3割の割合で、犬、猫、鳥、ウサギ、カメなど日々頭数に変動はありましたが、約120頭前後で推移し、最大のピークは6月25日、143頭に達しました。週末はボランティアの方々に恵まれましたが、ウィークデイはその人数に恵まれぬ日もあり、20人を割ると、仕事は過酷となり、動物たちにも充分な世話が行き届かなくなってしまうこともありました。しかし、暖かな地元の方々の力も借りながら、仮設住宅の完成を待ち、保護動物たちのマッチングと譲渡を進めながら、9月末日をもってその任務を終えることとしました。
 梅雨の季節には、猫の感染症(伝染性鼻気管炎FVR)が蔓延する事態となり、犬たちのストレス性下痢も相まって、動物たちにとっても、治療スタッフにとっても大きな試練でしたが、環境整備、隔離治療で何とか乗り切りました。加えて、咬傷事故の発生数の増加も認められ、咬むような子ではなかった子が、ボランティアの方を咬んでしまったりするケースも散見。ストレスフルな環境下におけるこれも大きな大きな課題です。
 シェルターメディスン(群管理獣医療)という専門的学問が存在します。米国ではすでに確立されているそうですが、日本ではまだ広くは知られざる学問と言えます。動物たちを集団で管理するシェルターワークを理論として学習し、これを管理する獣医師を育成する目的をもつ学問ですが、個体管理と群管理との違いを明確にし、あくまでも群れを優先して考え、過密を避け、ストレスを減らし、動物たちに生きるチャンスを与え、人と動物の絆をサポートする総合医療とも言えます。震災の経験から、今、この学問の実践への取り組みが始まっていますし、更に、ボランティアコーディネーターの育成も同時に始まっています。今回のように、大災害後の長期に亘、急務と改めて感じています。
 
                    宮城県大崎市
                    末永動物病院 院長
                   (社)宮城県獣医師会 理事 副会長