[会報47号より] 動物救護活動の獣医師レポート
- 2014/10/12 21:45
【東北大震災後、被災地で動物救護活動に参加し続けた
“いち獣医師”のレポート】
動物救護活動を経験して
宮城県 末永 朗
地球上で生きている者が、地球の自然な営みの中で生活させてもらっていることを、ともすれば忘れてしまう人間社会です。自然はそんな人間社会とは無関係に、人間の想像など遙かに越える現象を創り出してしまいます。2011年3月11日 午後2時46分 東北地方を襲った大地震と大津波は、地球の残酷なまでの自然な息づきを、まざまざと私たちに見せつけました。
大津波で、沿岸部の静かで穏やかな風景は一変し、街は壊滅し、人も動物も尊い命の犠牲を払わされました。その光景は言葉にならぬものです。
しかし、生き残った、生かされた生命を繋ぐことに人はまた、立ち上がります。被災後に出会った現地の人々の顔と言葉、動物たちの姿が、私たちを突き動かすことになります。被災地の動物救護活動に参加し続けた「いち獣医師」の体験と経験から少し綴らせていただきます。
すべてのライフラインが完全遮断した1週間は、それはそれは静かで、夜の暗さは恐ろしい程でした。ラジオからの情報のみで、みんな生きるのに必死の状態で、大パニックこそ無かったものの、生活物資を求める小パニックは必然でした。沿岸部の被害の状況が把握できはじめた10日目ごろから、石巻地区の被災した獣医師仲間の応援と支援に通いはじめました。400以上散在する避難所に、着の身着のまま、動物同伴で避難した人々を支援する活動は、物資、食料、薬品の供給運搬と聞き取り作業から始まり、情報の一元化とシェルター設置が急務と判断されました。全国の動物愛護団体と称する人々がボランティア活動を展開していく中で、動物たちを保護し、一時預かりという形で東京や大阪に運んでいく現実は、マッチング(飼い主との再会)を妨げ、被災者の心をも踏みにじるものでした。また、道路遮断の影響や情報共有の無さから、物資のみならずボランティアの偏りも目立ち、避難所の被災者が一様に支援を受けられる態勢が整わず、更に、避難所の縮小傾向が日にちの経過とともに進み、はじめは学校の教室(一次避難所)が主な避難先だったのが、体育館や集会所など(二次避難所)に統合され、同時に動物の同伴同行も許されぬ状況となっていきました。理不尽と思われることだらけのこの状況が大災害被災をしたということなのだと思います。
全国からのボランティアの参加に助けられながら、シェルターらしいものを形成できたのは4月の半ばでした。場所の設定やインフラなどの問題解決は、大混乱の中では、到底できるものではなく、行政も混乱の中にあって、事前に締結していた協定による協力体制も遅延し、先の見えない不安感とも戦わねばなりませんでしたが、「やらねば」という思いだけで、多くの支援が集結し、活動が展開していきました。まだまだ寒くて、時折、雪もちらつくこともある厳しい季節でした。
5月に入って、「動物救護センター」という名に相応しい状態とまではいきませんが、仕事の分担や様々な作業がスムースになってきたでしょうか。 ゴールデンウイークには100名を越えるボランティアが参加してくれましたし、多くのメディアが頻繁に取材に訪れるようにもなり、支援の輪が大きく広がっていくのが実感できました。動物たちは一時預かりが7割、保護動物が3割の割合で、犬、猫、鳥、ウサギ、カメなど日々頭数に変動はありましたが、約120頭前後で推移し、最大のピークは6月25日、143頭に達しました。週末はボランティアの方々に恵まれましたが、ウィークデイはその人数に恵まれぬ日もあり、20人を割ると、仕事は過酷となり、動物たちにも充分な世話が行き届かなくなってしまうこともありました。しかし、暖かな地元の方々の力も借りながら、仮設住宅の完成を待ち、保護動物たちのマッチングと譲渡を進めながら、9月末日をもってその任務を終えることとしました。
梅雨の季節には、猫の感染症(伝染性鼻気管炎FVR)が蔓延する事態となり、犬たちのストレス性下痢も相まって、動物たちにとっても、治療スタッフにとっても大きな試練でしたが、環境整備、隔離治療で何とか乗り切りました。加えて、咬傷事故の発生数の増加も認められ、咬むような子ではなかった子が、ボランティアの方を咬んでしまったりするケースも散見。ストレスフルな環境下におけるこれも大きな大きな課題です。
シェルターメディスン(群管理獣医療)という専門的学問が存在します。米国ではすでに確立されているそうですが、日本ではまだ広くは知られざる学問と言えます。動物たちを集団で管理するシェルターワークを理論として学習し、これを管理する獣医師を育成する目的をもつ学問ですが、個体管理と群管理との違いを明確にし、あくまでも群れを優先して考え、過密を避け、ストレスを減らし、動物たちに生きるチャンスを与え、人と動物の絆をサポートする総合医療とも言えます。震災の経験から、今、この学問の実践への取り組みが始まっていますし、更に、ボランティアコーディネーターの育成も同時に始まっています。今回のように、大災害後の長期に亘るシェルター運営を継続するとき、様々な問題が生じる現場の管理を、十分な知識と経験から助言できる人材の必要性は極めて大です。災害大国「日本」において、福島は現在進行形ですし、東京、東海、そして関西の大地震の脅威も叫ばれ、水害も頻発する中、防災訓練に併せて、このシェルターメディスンとボランティアケアの重要性を周知、認識することが、急務と改めて感じています。
宮城県大崎市古川諏訪2-4-53
末永動物病院 院長
(社)宮城県獣医師会 理事 副会長
The Japan Veterinary Medical Association (日本獣医師会)
診療室 から
動 物 愛 霊 の 碑
末永 朗 † (宮城県獣医師会理事・末永動物病院院長)
動物愛霊の碑
「動物愛護精神の普及・啓発」に対する取り組みは,獣医師の社会的使命である.また,社会貢献として,全国各地でそれぞれ特色ある催しや活動がなされているが,各獣医師の動物愛護に対する考え方によっても,切り口を異にして,様々な方法,手法で事業が展開されている.全国津々浦々で事業展開の内容はそれぞれ異なるものの,目指す目的は、「動物愛護」,「真の人間愛」,「豊かな社会と暮らし」で一致するものと思う.
今回,貴重な誌面を与えていただいたので,我が田舎町の取り組みの一端を紹介させていただく.
表題の「動物愛霊の碑」であるが,「愛霊」とは造語であり,「動物愛霊の碑」はブロンズ製(高さ1.3m,幅1.2m,奥行1m)で私がデザインを担当した,いわゆる慰霊碑である.
私が暮らしているところは,仙台市から北へ約40km,宮城県大崎地域.この地域の狂犬病予防注射を担当する獣医師の仲間17名が,慰霊碑を作ろうと発起し,同時に火葬,納骨施設を含めた動物公園の整備事業を念頭に,約1年間の構想,準備を経て,力を合わせて完成させたのが平成13年の春のことであった.以来,このブロンズ像の前で,年に一度,私たち主催で,桜の季節に動物慰霊祭を開催し続けている.年々増加する参加住民の人数と参加者の熱心さには心打たれるものがある.
ブロンズの愛霊の碑は,蝶の羽を持つ公園の妖精と犬,猫,兎,鳥で構成され,なびく妖精の髪と動物たちの体毛が,自然の風,生命の息吹を感じさせ,動物たちの視線は妖精に向けられ,愛される喜びと信頼を感じさせる.妖精は左手を動物たちへ,右手を口元に添えて微笑みをたたえ叫んでいる.動物たちと人々に叫んでいる.そのメッセージは観る人それぞれが感じるままに,「みんなここにおいで」「ありがとう」「元気出して」「頑張って」「幸せに」だったりするのかもしれない.5年の歳月と風雨にさらされて,ブロンズはいい色合いになり,多くの方が撫でてくれる動物たちの頭はテカテカになってきている.当初はイタズラも心配されたが,鳥の糞害は多少あるものの,それは全く無用のことであったことも嬉しいことであり,冬には妖精がマフラーを掛けてもらったり,動物たちがお揃いの帽子をかぶっていたり,夏にはカラフルな器に水が添えられていたり,お花が添えられていたり.その存在はまだまだ多くの方に知られているとは言えないが,愛してくださる住民の方々の中で,着実に,安らぎと慈しみの場所として,根付きはじめているように思う.
動物たちへの慈しみ,感謝,祈り,そして人間愛の尊さという4つのキーワードを旨にデザインされ,常にその思いを発信し続けるこの愛霊の碑は,私たち地域獣医師の誇りであり,地域社会との絆になっていってくれるものと信じている.
大切な何かが失われつつある現代社会の中で,獣医師としてできるこんなささやかな取り組みも,各地域で発信し,積み重ねることは,安心と信頼の日常診療の提供と同様に,社会の中での獣医師の大切な使命と改めて感じている.
―略 歴―
1976年 東京農工大学卒業
宮城県仙台市にて研修
1979年 宮城県古川市(現 大崎市)にて末永動物病院を開業,現在に至る
--------------------------------------------------------------------------------
http://nichiju.lin.gr.jp/mag/05909/06_11.htm