会報16号より 解剖室レポート

北里大学獣医畜産学部獣医学科 割田 克彦 

 十和田の長く厳しい寒さも徐々に弱まり、この春からは僕も 3年生です。

獣医学科が 6年制であることは皆さんご存知と思いますが 、 1学年時に一般教養があるために本格的に獣医学に携わるのは 2学年からということになります。したがって僕にとっての旧年 1年間は初めて経験することばかりで驚きの連続でした。

 獣医学の基本はやはり身体の構造つまり解剖学であるため、最初の実習はまず動物の解剖からということになります。 そこで、今回はその初めての解剖実習で思ったことをお話ししたいと思います。

 その時の僕は初めて獣医の卵らしいことができるという期待と、実際に動物を解剖する事への不安が入り交じる複雑な気分でした。

 初めて僕たちが解剖することになった動物は《犬》でした。

 献体された十数頭の犬たちは皆、行き場もなく保健所で殺処分され大学に運び込まれたものでした。そして健体解剖室で解剖台にのっている犬たちをみて、僕は言葉をなくしました。献体されてきた犬たちの 3分の 1が、なんとかつては何十万という高額で売買されていたシベリアンハスキーやゴールデンレトリバー、セントバーナードだったのです。その中には当然、首輪のあるものはいませんでした。数年前までは持てはやされ、一種のステータスシンボルであったこれらの大型犬が、今や獣医の大学に献体され学生の実験台になっているなど、その当時誰が想像していたでしょうか。絶対に考えられなかった光景であったと思います。

 なぜ彼らが今、実験台にされようとしているのかは解剖していく段階でわかることですが、何日間も野なかをさまよっていた野良犬は痩せてしまうために、ほとんどと言っていいほど皮下脂肪の層が薄くなってしまうものです。当然彼らのような純粋種がどこかの物陰で自然繁殖するはずはなく、彼らの厚く覆われた脂肪の層は、ごく最近まで飼い主の元でちゃんと飼われていたことを物語っていました。

 全犬種登録団体ジャパン・ケンネル・クラブ(JKC)によると、1980年代に入りシベリアンハスキーが日本で初めて登録されたのはわずかに 2頭、その後のハスキー人気はうなぎ上りで約10年後の1991年には、この年だけで44000頭に及ぶ登録があったといいます。しかし、昨今の不景気に伴いシベリアンハスキーをはじめとする大型犬人気は著しく減少、ペットショップの店頭でも小型犬にすっかり取って代わられてしまいました。
 あれほど持てはやされていた大型犬は、今、どこで、なにをしているのでしょう ?

 解剖台の上に横たわり、もう 2度と吠えることもなく 舌を垂らして堅くなっていたのです。

 一般的に保健所に連れてこられる捨て犬というと、町なかをさまよっていた雑種犬を想像しがちですが、最近では引っ越しやマンション住まいで飼えなくなったという 理由により、意外と高価な犬までもが保健所に連れてこられるというのも珍しくはないのです。また、保健所に連れていかれるのではなく山野に置き去りにされてしまう可哀想な犬たちもいます。おそらくこれらの犬を捨てた飼い主たちは、これからは自由に狩りをして生きてゆく自分の犬を想像して捨てていったのでしょう。しかし、飼い主の思い通りに野犬としてたくましく生きていける犬はわずかで、子犬の頃から飼い慣らされてきた彼らが獲物を捕れるはずもなく、大部分は飢え死にという悲惨な運命をたどることになります。また、運良く生き延びたとしても,そのような野犬は「ノイヌ」と呼ばれ、鳥獣保護及び狩猟に関する法律により狩猟鳥獣の 1つとして定められているのです。
もし、彼らがこの事実を知ったら、私たち「ヒト」に対していったいなにを思うことでしょうか。

 ペットを飼うことに精神的な安らぎを求める人、あるいは経済的な効果を求める人などその理由は様々だと思います。が、理由は何にせよ忘れてはいけないことは、動物も私たちと何ら変わらない精神的な痛みを感じるのだということです。

 飼われる動物には飼い主を選ぶ選択権はありません。飼われた動物の一生が果たして幸福なものとなるか、そうでないかは 動物を飼う人次第です。

 考えるまでもなく、これは当たり前のことなのですが、今回のような現実を目の当たりにすると、まだまだ動物に対する私たちの意識は足らないように思われるのです。

 本来自由の身である動物を【飼う】というのは 【その動物が一生を幸せに終えるまで面倒みる】ということなのではないでしょうか。

 解剖台に横たわる犬たちの白く濁った瞳は、人と愛玩動物のあり方について、ひっそりと訴えかけていたように思えたのです。